2009年06月30日

だがこの事件は

だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、「中国全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも中国共産党への抗議活動が起きている。
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多くの民主主義国の政府が、六四天安門事件における中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。日本やアメリカ、中華民国やフランス、西ドイツなどの民主主義国は、武器を持たぬ市民への「虐殺」とも言える武力弾圧に対して譴責あるいは抗議を発表し、ほとんどの当時の西側主要国が懸念、遺憾の意を示している。「遺憾の意」を示した国には、ベトナムのような社会主義国や、タイのような華僑の多い中華人民共和国の友好国も含まれている。
同時に多くの国が中国共産党による武力弾圧に対して抗議の意を示すため(と団員の安全を確保するため)に在中華人民共和国の外交団の撤退を始めたほか、ヨーロッパ諸国は対中兵器輸出を禁止するなど、多くの主要国が最恵国待遇の停止や武器輸出の停止などの条件付、もしくは無制限の交易の停止を発表した。また、世界銀行による中華人民共和国への融資の停止も行われた。

その後、「譴責」や「抗議」を行った国を含めて、ほとんどの国が時期をおいて中華人民共和国との外交関係の回復を行ったものの、この事件が中国共産党による一党独裁国家である中華人民共和国および中国共産党そのものの異常性を示す例であるとして、その後の西側諸国を中心とする諸外国における同国の評価を下げる大きな原因の1つとなった。


2009年06月12日

この世に存在する物質の性質とその変化は

この世に存在する物質の性質とその変化は、古代ギリシャ哲学の命題の一つとして探求され、元素論として結実した。元素論の考えによれば、物質は元素の性質から派生するものであり、物質の違いとは性質の違いに他ならない。中世の錬金術も物質の成り立ちの探求よりは性質の変化にその探求の目が向けられていた。ドルトン以降の物質の分子説に基づく近代化学においても、学問の目的として物質の種類の変化、すなわち性質の変化を指標として探求された。それゆえ、物質の種類の変化を化学変化と今日でも呼び表わす。化学変化は定義により化学反応を伴っているので化学変化することを意味する化合するという語は化学反応と同義である。
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物理学は17世紀までは物体の運動を扱う力学を中心としたものであった。17世紀後半になるとフーリエの熱の研究を初めとして、物の性質の根源が物理学の研究対象となり18世紀から19世紀の物理学は物の性質である物性の探求が一大目標であった。それゆえ、物性変化は物理変化とも呼ばれる。このように研究の歴史的変遷により、今日の物質の性質を研究する学問は化学と物理学の双方で扱われ、特に物性について取り扱う研究分野としては無機化学、物理化学、固体物理学が挙げられる。

物質の種類 [編集]
物質を化学的概念で分類する場合、化学物質と言い表される。

化学物質
単体 - 単一の元素から構成される化学物質
化合物 - 複数の元素から構成される化学物質
物質が単一の主たる成分〈化学物質〉で構成される場合純物質、複数の主成分から構成される場合は混合物と呼ばれる。尚、純物質の微量副成分は不純物と呼ばれる。不純物と混合物とは存在比の程度の差であり、その境界は曖昧である。

物質の成分が同一であっても化学構造の違いにより異なる化学物質となる。

同素体 - 同一元素の単体で化学構造が異なり物理的性質〈物性〉が異なる物質。
異性体 - 分子の内部構造が異なる化学物質。
相変態 - 金属など圧力や温度により結晶構造が変化した化学物質。物性が異なる物質。
構成する原子の核種が異なるものを同位体と呼ぶ。同位体は化学的性質は同一で物性もほとんど同一である為、同位体は化学物質の違いとしては通常は区別しない。放射線に関する物性など特定の用途に用いる場合はどの同位体であるかを区別する。

物質は通常、巨視的には電荷を帯びていない。化学変化により永続的な電荷をもつ原子・分子をイオンと呼ぶ。イオンは正と負とでイオン対を形成し、見かけ上は電荷を帯びていない状態で安定化している。〈高温化において原子核と分子との結合が乖離した状態がプラズマ〉

2009年06月08日

無意識の意味1

無意識は、「意識がない状態」と「心のなかの意識でない或る領域」の二つの主要な意味がある。

「意識がない 独: unbewusst, bewusstlos, 英: unconscious」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。

他方、弱い意味で「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、音楽の両方が意識される。しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。

人間は時間のなかで、非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受け、その多くを意識している。しかし、「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激で、大脳は感受し、記憶に刻んでいるものは、もっと膨大な量が存在する。記憶に関する心理学の実験からそのことが言える。

人間は様々なものを意識するが、目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である。記憶の再生は、ある言葉や知識などが再現されることもあるが、また内的なイメージの形で、過去の情景(視覚的・聴覚的等)が思い出されることもある。

記憶は日常的に再現されており、複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を「意識しない」で、機械的に遂行することが可能である。例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではない(参考:手続き記憶)。
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「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことが、この現在に想起され、イメージや感情や意味で構成される「意識の流れ」が持続している。

しかし、その他方で、何かを思い出そうとして、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在し、このとき、意識の滑らかな流れは滞り、記憶を再生しようとする努力が意識に昇る。

思い出そうとして、努力などが必要な記憶は、「滑らかに流れて行く意識の領域」には、想起が成功するまでは、存在しなかったことになる。では、そのような記憶はどこにあったのか。無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであるが、主観的な経験としては、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされる。

2009年04月24日

南極本土には噴気

南極本土には噴気や新しい火山灰が確認された活火山が4つある。

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メルボルン山(2,730 m)(南緯74度21分、東経164度42分)、成層火山
ベルリン山(3,500 m)(南緯76度03分、西経135度52分)、成層火山
カウフマン山Mount Kauffman (2,365 m)(南緯75度37分、西経132度25分)、成層火山
ハンプトン山(3,325 m)(南緯76度29分、西経125度48分)、火山カルデラ
海上の島々では複数の火山で火山活動の記録が残っている。

エレバス山(3,795 m)、成層火山
ロス島、噴火10回は確認、その他1回は推定
以下は大陸の反対側になる。

デセプション島(南緯62度57分、西経60度38分)、火山カルデラ、もっとも活発で噴火10回を確認、4回は推定
以下も活火山と考えられる。

バレニー諸島のバックル島en:Buckle Island(南緯66度50分、東経163度12分)
サウスシェトランド諸島のペンギン島en:Penguin Island (South Shetland Islands)(南緯62度06分、西経57度54分)
ポーレット島Paulet Island (南緯63度35分、西経55度47分)
リンデンバーグ島Lindenberg Island (南緯64度55分、西経59度40分)

2009年04月07日

クール・ジャズ

クール・ジャズ (Cool Jazz) とは、ビバップの反動として1940年代後半に生まれた、白人寄りの傾向をもつジャズのジャンル。理知的でコントロールされて聞こえる一方、ビバップにある躍動感や情緒感は欠ける傾向にある。反対のジャンルにホット・ジャズがある。

スウィング・ジャズの反動から出たビバップは、陽気で奔放な演奏主体を持っていた。しかし、音楽的成熟のピークを経た後には、命でもあったアドリブ(即興演奏)も単調になりがちになった。その反動として奏法・展開などに抑制の効いたスタイルを持ち味とする、このジャズが生まれた。一連のニューオーリンズ・ジャズなどの反動からスウィング・ジャズが生まれた当初と、このビバップからクール・ジャズが出てきた音楽的背景が似ていることを指摘する評論家もいる。クール・ジャズはビバップに比べ、控えめなテクニック表現とリズムで、クールにも聞こえた一方、アンサンブルサウンドやその楽器編成、音楽構成も重要視されていた。

ビバップが黒人のためのジャズであるのに対し、クール・ジャズは白人による白人のためのジャズと、後に定義づけられることになったが、創始者はマイルス・デイヴィスと言われ、彼のアルバムクールの誕生がその起源とされている。常に進化を望む彼が打ち出したこのスタイルは、彼らが自らを黒人であることさえを否定するかのようにも見え、彼の思惑通りか「ジャズは黒人が演奏するもの」という当時の概念を結果として否定することになったのである。

レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク


2009年03月23日

ロングシート化

1 - 8次車に製造当時装備されていた小型固定クロスシートは、幅82.5cm、高さ77.5cm、取付ピッチ75cmのものであった。当初のモケット色は縞模様の茶色で、後に6500系と同じ無地の茶色になった。1人分の幅が41cm強と路線バス並みのため、やや窮屈で、「1.5人掛け」とも言われた。この小型クロスシートは、通路幅を確保し、ラッシュ時の乗客の流動を妨げないようするためのものであったが、乗客の評判は芳しくなく、混雑の激化などもあって、このグループの小型クロスシートは1990年までに全車の座席がロングシートとなった[10]。これにより、ロング化された部分(客用扉間)は座席定員が1名分ずつ減少した。モケット色はロング化当初100系と同様の赤色とされ、床敷物も中央部の立ち席スペースを明示する赤色のものに貼り替えられた。9・10次車の固定クロスシートはこの寸法より拡大されており、現在でも、8編成中5編成がロングシート化されずに残っている。

瀬戸線対応化 [編集]
3500系などの増備や1995年当時瀬戸線に残っていた2ドアのHL車、3780系置き換えや列車増発のため、ロングシート化された5 - 8次車の一部が瀬戸線に転属した。まず、1995年に2両組成8本が転属した。続いて、翌1996年と2000年には、他編成の中間車のみの16両と4両組成1本(6035F)が転属した。中間車のみで転属した16両については、1995年に転属した編成に改番の上で組み込まれた。現在では、4両組成9本の陣容となり、同線の主力となっている。

同線への転属に際しては、同線独自の自動放送装置および方向幕の取り付けや、地下線への対応のため、A-A基準化(座席モケットの不燃性素材のものへの交換など)、限流値の変更などの改造が施された。自動放送装置の機器はモ6200形に搭載されている。1995年に転属した2両組成は、4両組成化する際、前面貫通幌が撤去されたが、幌枠は残された。また、正面貫通扉のステップの色は本線系の車両の赤に対し、瀬戸線所属の車両はグレーとなっている。

名鉄は、2008年度に、今後2年間で回生ブレーキを持たない車両を淘汰するとの発表をし、同線にも新型車両の4000系の投入が開始された。一部鉄道趣味誌において、瀬戸線所属の6000系車両が本線系統に復帰するとも報じられたが、今後の処遇は今のところ未定である。

更新工事 [編集]
1次車製造から20年が経過した1997年度から2002年度にかけて、1 - 4次車計56両(内訳は2両組成6本と4両組成11本)が特別整備を受けた。変更点は以下のとおりである。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

化粧板を白色系で微粒柄のものに交換。原型は1次車のみ7000系と同じ淡灰色クリスタル柄、2次車以降が白色系縦縞であった。
床敷物を3500系と同柄で色をベージュ系のものに交換。
シートモケット(以下モケット)をワインレッド系のチェック柄入りのものに交換(優先席は背面のみブルー系)。床敷物とモケットは、6500系などのロングシート改造車でも同じものが使われている。
先頭車の運転席後ろの座席を撤去し、車椅子スペースを新設。併せて非常通話装置も取り付け。
ドアチャイムを新設。音色は3500系などのものとは異なり各編成ごとに微妙に異なる。なお、2000年度以降に更新されたものは、海側と山側とで音色がやや異なる。同じものは5 - 8次車の2両組成のうち6019Fを除く全編成や7100系・7700系にも使われている。
車体側面に種別・行先表示器を新設。さらに、2000年度以降はローマ字併記の幕への交換も行われた(現在は全編成が交換済み)。6500系以降の車両に比べて幕板部が狭いため、表示窓周りがくぼんでいるのが特徴。今はなき7500系の特別整備車も同様であった。
運転室の色をクリームに、運転台機器パネルの色を黒に変更。マスコンとブレーキのハンドルを5次車以降と同様、手前に傾斜させた。
1999年度からは、外側の連結面にステップ付きの転落防止外幌を設置。2002年度更新車は折り畳み式のものに変更。
さらに、2両組成の6009F - 6013F(連続固定窓の2両組成、6014Fを除く)は、1998年6月1日より蒲郡線がワンマン化されたのに伴い、これらの工事に加え、運転席後ろへの料金箱、運賃表の取り付け、客用扉外側への締め切り表示灯の設置が行われた。

更新工事を受けた年度
1997年度 - 6003F・6015F・6009F-6012F(2)
1998年度 - 6002F・6005F・6006F・6013F(2)・6014F(2)
1999年度 - 6007F・6008F
2000年度 - 6001F
2001年度 - 6016F
2002年度 - 6004F・6017F
(注:(2)は2両組成)

なお、6014Fはしばらくの間、モケットのみ未交換(ロング化当初の赤色)で運行されていた。

2009年03月07日

リッチモンド・K・ターナー (ミサイル巡洋艦)

リッチモンド・K・ターナー (USS Richmond K. Turner, DLG/CG-20) は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。リーヒ級ミサイル巡洋艦の5番艦。艦名はリッチモンド・K・ターナー海軍大将に因んで命名された。

リッチモンド・K・ターナーは1961年1月9日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工する。1964年6月13日に就役し、8月10日にフィラデルフィア海軍造船所を出港、バージニア州ヨークタウンおよびノーフォーク、キューバのグアンタナモ湾を経由し母港のカリフォルニア州サンディエゴに向かう。パナマ運河通過後メキシコのアカプルコを訪問し、サンディエゴには1964年9月11日に到着した。

1965年6月4日、太平洋西部への最初の配備のためサンディエゴを出港する。リッチモンド・K・ターナーは南シナ海で第77任務部隊に加わり、ミサイル護衛艦として空母コーラル・シー(USS Coral Sea, CVA-43)、インディペンデンス(USS Independence, CV-62)およびオリスカニー(USS Oriskany, CV-34)の支援を行った。

リッチモンド・K・ターナーは1965年9月にトンキン湾での捜索救助駆逐艦部隊に配属される。同任務の期間に8名のパイロットを救出し、任務が終了するとスービック海軍基地を離れ12月8日にサンディエゴに到着する。

1966年10月15日にサンディエゴを出港、再び東南アジア海域へ向かい、1967年3月28日に母港に帰還するとその後海軍兵学校生の訓練巡航で真珠湾へ向かう。

1968年6月10日に3度目のベトナム配備に出港し、1968年12月にサンディエゴへ帰還するまでアジア海域での艦隊作戦に貢献した。

その後リッチモンド・K・ターナーは南部カリフォルニア作戦海域での対潜水艦戦訓練艦としての任務に従事する。2月に海軍長官の巡航が行われ、3月1日にはサンディエゴ海軍基地において艦載ミサイルシステムの広範囲なアップグレード作業に入る。作業の完了後訓練と海外展開のための準備に入り、1970年1月には4度目の西太平洋配備に入る。

1970年3月4日に日本の横須賀に到着し、その後2ヶ月間を日本海での作戦任務に従事する。1960年6月から7月にかけてベトナム沖合で活動し、その後グアム、真珠湾経由で8月にサンディエゴに帰還する。

1971年3月22日にリッチモンド・K・ターナーはメイン州バスに向けて出港し、4月27日にバス鉄工所に到着する。リッチモンド・K・ターナーは5月5日に予備役となり、海軍のミサイル巡洋艦対空戦闘能力増強プログラムの下改修が行われる。作業の終了後リッチモンド・K・ターナーは1972年5月17日にバス鉄工所で再就役した。

就役後は7ヶ月にわたってアメリカ東海岸沿岸、カリブ海で様々な試験、回復訓練及び演習を行う。1972年11月22日にロードアイランド州ニューポートへ帰還し、1973年1月9日まで同地に留まった後、ボストン海軍工廠入りし二ヶ月間の調整が行われる。3月にボストンを出港し、リッチモンド・K・ターナーは1973年にUNITAS巡航で南アメリカへ展開した。

リッチモンド・K・ターナーは1975年7月に CG-20 (ミサイル巡洋艦)へ艦種変更され、1976年7月4日にはアメリカ建国200周年記念のニューヨークにおける国際観閲式に参加した。

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
1998年8月9日にリッチモンド・K・ターナーは SINKEX 演習の標的艦としてプエルトリコ近海で海没処分となる。攻撃はフィリピン・シー(USS Philippine Sea, CG-58)、ソーン(USS Thorn, DD-988)、ニコルソン(USS Nicholson, DD-982)および第3空母航空団を含むエンタープライズ戦闘集団によって行われた。
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歴代艦長
ダグラス・C・プレート大佐 CAPT Douglas C. Plate 1964年6月 - 1965年8月
アルパイン・W・マクレイン大佐 CAPT Alpine W. McClain 1965年8月 - 1967年5月
フロイド・E・スミス大佐 CAPT Floyd E. Smith 1967年5月 - 1968年12月
カーソン・R・ウォーレイ大佐 CAPT Carson R. Worley 1968年12月 - 1970年8月
ケネス・G・ヘインズ CAPT Kenneth G. Haynes 1970年8月 - 1971年5月
ルシエン・カポネ・ジュニア大佐 CAPT Lucien Capone, Jr. 1972年5月 - 1974年5月
ジェームズ・A・ライオンズ・ジュニア大佐 CAPT James A. Lyons, Jr. 1974年5月 - 1975年6月
ウィリアム・W・サリヴァン大佐 CAPT William W. Sullivan 1975年6月 - 1977年8月
ロジャー・O・サイモン大佐 CAPT Roger O. Simon 1977年8月 - 1980年1月
ジェラルド・E・グネッコウ大佐 CAPT Gerald E. Gneckow 1980年1月 - 1983年1月
デービッド・B・ロビンソン大佐 CAPT David B. Robinson 1983年1月 - 1984年7月
ヴァンス・H・モリソン大佐 CAPT Vance H. Morrison 1984年7月 - 1986年2月
ジョン・D・ルーク大佐 CAPT John D. Luke 1986年2月 - 1988年3月
ロナルド・L・ラシター大佐 CAPT Ronald L. Lassiter 1988年3月 -
ジェームス・L・バーク大佐 CAPT James L. Burke 1990年5月 -
ジョン・W・オーリン大佐 CAPT John W. Allin 1992年6月 - 1995年4月

2009年02月19日

北マリアナ諸島

北マリアナ諸島(きたマリアナしょとう, 英:Commonwealth of the Northern Mariana Islands)は、アメリカ合衆国(米国)の属領・保護領(自治的・未編入領域)である。ミクロネシアのマリアナ諸島のうち、サイパン島、ロタ島、テニアン島など、南端のグアム島を除く14の島から成る。首都はサイパン島のススペ。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

「北マリアナ諸島連邦」と日本語訳されるが、北マリアナ諸島は連邦制(英:federation)をとっておらず、アメリカ合衆国と連邦の関係にあるわけでもない。この連邦とは、コモンウェルス(英:commonwealth)とよばれる自治の形態で、複数の国またはそれに匹敵する地域が政治的経済的につながりを持っている関係を指している。 税関申告書の日本語版にも「北マリアナ連邦へようこそ」と書かれている。

1919年から1944年まで日本が委任統治した。現在は米国属領の中でもコモンウェルス(英:commonwealth)という政治的地位にあり、北マリアナ諸島住民はアメリカ合衆国連邦税の納税義務を持たない代わり、アメリカ合衆国大統領選挙の投票権がない。

内政
首長公選制で二院制議会。
死刑制度は無い。
北マリアナ諸島では入国審査時にアメリカ合衆国の本土(内地)及び米領グアムで実施されている指紋採取が行われていない。

人種・民族・宗教
チャモロ人・カロリニアン人のカトリック信徒が多い。

最初にこの島々に居住した人々の子孫はチャモロ人と呼ばれるが、現在はミクロネシア連邦に属するカロリン諸島との交流も古い伝統があり、カロリン諸島系の住民(カロリニアン)も少なくない。ドイツ及び日本による統治時代には、先住民による遠洋航海禁止政策によって、一旦カロリン諸島との交流は途絶えたが、1970年にサタワル島の航法師ルイス・レッパンルックが再びカロリン諸島とサイパンの間をカヌーによって航海し、現在は両者の交流は再び盛んになっている。

経済
観光業、繊維業が盛んで、地理的に近いこともあって観光客の殆ど(7割以上)を日本人が占める。

歴史
紀元前16世紀頃 チャモロ人が移住
9世紀頃 タガ王朝誕生
16世紀頃 カロリン諸島からのカロリニアンと交易、一部移住
1521年 ポルトガル人フェルディナンド・マゼランが到達
1565年 スペインが領有権を宣言
1899年 売却によりスペイン領からドイツ領となる
1914年 第一次世界大戦で日本が占領
1920年 国際連盟で日本の委任統治領とされる
1944年 第二次世界大戦でアメリカが占領
1947年 国際連合でアメリカの太平洋諸島信託統治領ミクロネシアの一部とされる
1986年11月3日 アメリカとの独自の交渉によりコモンウェルス規約を締結、レーガン大統領が北マリアナ諸島をコモンウェルスと宣言し、今に至る

島々

北から順番に
パハロス島
マウグ島
アスンシオン島
アグリハン島
パガン島
アラマガン島
ググアン島
サリガン島
アナタハン島
メディニラ島
サイパン島
テニアン島
アグイハン島
ロタ島

2009年02月03日

浅井氏(あざいし、あざいうじ、淺井氏)

浅井氏(あざいし、あざいうじ、淺井氏)は日本の氏族。近江国(滋賀県)の国人、近江北部を中心に勢力を持った戦国大名である。
タンカー ドル箱 フィクサー チョンチ 微熱 フッター バーム トレー オペラ ロジス トーナメ ヤーコン ファーマ ジェノサ オフコン プロパ ビジタ お祭り ゴング ギタリスト ゲスト ハンド 北風のキ ピラニア リボン パイル ハイブリ チュウ ハット ワイツ ムラサ 雨のタン ストーン スターチ テーブ シンシア セピア バーナー しもにた イソウ サーチスギ パラメ シルフィ リッツ そうま タイム オスロニク キーポイ シャイニ ばるべーら

本姓は藤原氏を称するが、近江の在地豪族、郡司クラスの末裔とする説がある。京極氏の譜代家臣として中堅的位置にあった。「江北記」には根本被官として今井、河毛、赤尾、安養寺、三田村氏ら12氏のうちの一つとして列記されている。

尾張国に移り住み、織田氏・徳川氏に仕えた系統もある(異説・諸説あり)。

ドラマなどで「浅井」が「あさい」と読まれることも多いが、上記の通り「あざい」が正しく、現在の滋賀県でも「あざい」と読む。ただし異論もあり、『浅井氏三代』を著述した宮島敬一は

本来「浅」を「あざ」と訓ずることはない
「あざい」と読んでいる易林本『節用集』では朝倉氏も「あざくら」と読んでいる
近江浅井氏の「あさい」の語源は朝日(あさひ)郷の転化によるものとするのが自然
と理由を挙げて、普通に「あさい」と読むべきだとしている。

近江浅井氏

近江浅井氏当主
浅井亮政
浅井久政
浅井長政

北近江に台頭
浅井亮政のとき、近江の北3郡を統べる守護大名であった京極氏の御家騒動を経て、北近江では、有力豪族の浅見氏を盟主とした国人衆をによる京極家の家政体制が敷かれた。

やがて、専制が強めた浅見氏を追放し、京極氏を傀儡化させ、京極家の有力家臣をも従えて戦国大名へと成長していったとするのが通説である[1]。その後、亮政は勢力拡大を図って南近江の六角定頼と対立するも、一時、定頼の攻勢に押されてしまったことがある。このため亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結び、その支援のもとに定頼の攻勢を押し返して北近江の支配力を高めていくのである。

自立への道、険し
しかし亮政の死後、後継の浅井久政の代になると周辺大名の京極氏や六角氏、斎藤氏に度々侵攻を受ける。このため、北隣の朝倉氏との提携は不可欠であった。

やがて、斎藤氏の没落によって東からの脅威は取り払われたが、六角氏の北進を阻むのは困難であった。

特に定頼の子・六角義賢からは大攻勢をかけられる一方で、六角家臣の娘を久政の嫡男・新九郎に娶らされただけでなく、新九郎の名乗りも「賢政」にさせられるなど、徐々に六角氏に臣従化されていく。このような久政の弱腰な外交姿勢に家臣たちの間に不満が募っていくのだった。

自立のための戦いから、滅亡へ

浅井長政永禄3年(1560年)、嫁を強制送還した新九郎が強硬派家臣を率いて六角氏との決戦に臨んだ野良田の戦いでは、義賢に大勝。浅井氏を六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ、家督は長政が継承することとなったのである。しかし、久政の政治的発言力が完全に失われたわけではなく、隠居後でもなお発言力はあった。

その長政は美濃を支配して勢いに乗る織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、浅井氏の安泰を図った。六角氏との対抗戦略としては効果的な同盟であったが、元亀元年(1570年)に、信長が朝倉義景を攻めるべく越前に侵攻すると、その対応に苦慮する。

織田氏との同盟関係を構築しながらも以前からの朝倉氏との同盟も堅持していたため、どちらの支援に加わるかで家論が割れたのである。

父の久政や家臣たちが「大恩ある朝倉を見捨てるべからず」と主張し、信長との同盟を破棄して朝倉氏を助けるように迫った。長政は迷いに迷ったが、結果的には信長との同盟を破棄し、織田軍に背後から襲いかかっている(金ヶ崎の戦い)。

これにより長政と信長の同盟関係は終束し、以後の両雄は対立を深めることとなる。しかし、同年に勃発した姉川の戦いでは地の利を活かせず、優勢で終えられなかった。

その後、朝倉氏の他に摂津の三好氏や、かつての仇敵・六角氏など信長に圧迫されていた勢力も対抗姿勢を強めたため、織田氏との抗争は一進一退。一時的には織田氏よりも反攻勢力が勝っていたこともあった。

だが、朝倉氏の煮え切らない戦略姿勢が信長の息の根を止めなかったために、西上作戦を発動させた武田信玄の病没で最大の好機を逸してしまうと、浅井氏などの反攻勢力は織田軍の大反攻に晒される。

元亀4年を天正に改元した1573年、小谷城の戦いで織田軍に居城・小谷城を攻囲された久政と長政父子。小谷城への来援に現れた朝倉氏は本国への退却中に織田軍に猛追された上に、越前の本領まで攻め込まれて滅亡してしまう(一乗谷城の戦い)。

完全に孤軍となった浅井氏の父子は自害して果て、浅井氏は滅亡したのである。

その他の系統
田屋明政の系統(三好へ改称)、尾張浅井氏の浅井新八郎の系統などは、江戸幕府旗本として続いた。

系譜
近江浅井氏

凡例  太線は実子、細線は養子

重政?
    ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
    忠政?                          直種
    ┣━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓   ┣━━┳━━┳──┐
   直政       敏政              清政? 亮政 政種 井演 政信
    ┃                        ┣━━━┓     ┃  ┃
   蔵屋=亮政(直種の子・直政の養子)        貞政  秀信    井伴 政澄
┌──┳━┻━┳━━━━┓                ┃   ┃     ┃
明政=海津殿  政弘   久政               盛政  亮親    井規
   ┣━━━┓     ┣━━━━┳━━┳━━━┳━━━┓    ┣━━┓  ┃
政高=海津局 饗庭局  長政=市 政元 政之  阿久姫 養福院  吉政 成伯 井頼?   
  ┃    ┏━━┯━━┛ ┣━┳━┳━━┳━━━┓       |
三好直政  長明 井頼?   茶々 初 江 万福丸 円寿丸     藤堂賢政

尾張浅井氏

高政
 ┃
政貞
 ┣━━┓
長時 政重
 ┃
政候

近江浅井家の女性
文和慶集尼(直政母)
浅井蔵屋(直政女、亮政妻)
海津殿(鶴千代。明政妻)
海津局(明政長女、政高妻、三好直政母。淀殿のち崇源院、千姫侍女)
饗庭局(明政次女、内藤長秋母。淀殿乳母)
浅井千代鶴(久政母の説あり)
尼子馨庵(亮政妻、久政母の説あり)
浅井松市(久政長女、三田村定頼妻)
浅井寿慶(壽慶。久政次女、浅井忠種室)
小野殿(井口阿古。久政室)
昌安見久尼(阿久。久政長女)
近江の方(斉藤義龍室)
養福院(久政女、京極マリア、京極高吉室)
大弐尼(久政女。六角義実女房)
平井定武女(長政室)
お市の方(長政室)
淀殿(茶々。長政女、豊臣秀吉室)
常高院(初。京極高次室)
崇源院(江もしくは督、のち江与。徳川秀忠御台所、徳川家光母及び東福門院母)
八重の方(長政室、七郎母)?
本念宗心大姉(長政室、くす母)
浅井くす(長政女)

南殿(宗如。浅井丹波守妻、浅井亮親母)
寿忻(浅井亮親妻)
永久 (恵久)(浅井丹波守長女)
広瀬殿(寿盛。浅井丹波守次女、浅井兵衛五郎妻)
対馬局(浅井定政女。東福門院女房)
出羽局 (浅井清忠女。東福門院女房)

浅井氏家臣団
浅井氏の家臣団は元々浅井氏の家臣であった譜代系である田辺・保多・矢野・遠藤らのほかに、かつて京極氏家臣団の頃に同格であった海津・小山・三田村・八木・布施・今井・磯野・阿閉などの名前が挙げられる。譜代家臣の数の少なさは浅井氏の近江支配には大きな問題点であった。少なくとも亮政の頃には国人層による連合制的な面が強く、代を経るごとに支配体制が強化している。磯野員昌を磯野氏本拠の磯野山城ではなく、元は小川氏の居城で百々内蔵助戦死後の佐和山城に置き、浅見氏の居城であった山本山城に阿閉氏を配した天文年間以降には支城在番制に近いものを構想していた様子も伺える。

だが集権的とは言いがたく、長政の代に織田信長との戦いが長期化すると元京極氏家臣団の中からは浅井氏を離反するものが多く現れた。なお、桑田忠親は永禄年間の浅井領支城数は73ほど検出されているとしている。

赤尾清綱
海北綱親
雨森清貞
遠藤直経
磯野員昌
阿閉貞征
宮部継潤
新庄直頼
小川祐忠
藤堂高虎
野村直隆
井口経親:「湖北四家」の一家。父経元は亮政の重臣であったが亮政の身代わりとして箕浦合戦で戦死し、それに感謝した亮政は経親を重用したと伝わる。経親の妹(従妹と言う説も)は久政の妻(小野殿)となり長政を出産している。
大野木秀俊:土佐守。浅井氏庶流の重臣。小谷城の清水谷にも土佐屋敷(官命にちなむ)と言う名で大野木氏の邸宅跡が残る。姉川合戦時には横山城を守備。主家滅亡の際信長に降伏したが許されず、殺害された。
三田村国定:左衛門大夫。横山城を大野木秀俊らと共に守護していたが、姉川合戦において戦死。三田村氏は京極氏の根本被官であったが、浅井氏の勢力拡大の際に二つに割れた。浅井側についた三田村氏の三田村定頼が亮政の娘と結婚しているため、親族衆に数える向きもある。国定は定頼の一族であろうが、関係はっきりしない。国定の4人の子が小谷落城の際に織田軍と交戦・戦死しているので、年齢的には久政に近いのであろう。定頼とは兄弟か。なお三田村定頼・光頼父子も小谷落城時に討ち死にしている。
安養寺氏種:近江の土豪。元は京極氏の被官。長政と織田信長妹の縁組の仲介役を務めたという説もあるがはっきりしない。主家滅亡後は京極高次に仕え、1606年死亡。『浅井三代記』の安養寺経世と同一人物か。
浅見道西:対馬守。元山本山城の浅見氏の一族であろうとされているが関係は不明。亮政の代に浅井氏と交戦した浅見氏も対馬守を名乗っているため、或いは親子か。
弓削家澄:通称六郎左衛門。姉川合戦にて戦死。弓削氏は京極家の重臣であったが後に浅井氏に仕えた。びわ町に弓削屋敷跡とされる弓削館が残る。
脇坂秀勝:通称左介。久政の代から浅井家の家臣。外交文書などを発行する奏者を勤めた。出身地が近い脇坂安明・安治親子と同族であろうが、関係ははっきりしない。
中島直親:横山城主中島日向守直頼の子。通称宗左衛門。1573年丁野城を攻めた織田軍に攻め落とされた後、記録が途絶える。
片桐直貞:通称孫右衛門・肥後守。小谷城須賀谷を守備していたとされる。後に豊臣秀吉に使えた。片桐且元の父。

2009年01月20日

自然科学者などの多くの学者

写真が誕生したときより、自然科学者などの多くの学者や芸術家が写真に関心を示してきた。学者は写真を記録と研究に利用した。軍隊や警察も偵察、調査、捜査、裁判などのデータ記録に写真を利用する。写真は商業目的でも撮影される。写真を必要とする団体における、写真の利用法には、選択肢がある。その団体の誰かが撮影を担当する、外部のカメラマンを雇う、写真を利用する権利を取得する、写真を公募する等である。

例えば、エドワード・マイブリッジの連続写真を使った人間の動きに関する研究(1887年)などがある。それまで人の目が捉えることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。また19世紀後半以降撮影された世界各地での探検や人類学的調査や遺跡調査などの記録写真、あるいは天体写真や顕微鏡写真は、人類の知識に変化を与えた。ピクトリアリスム運動は絵画の影響を強く受けた活動であり、写真は古くは絵画そのものを期待されていた[4]。他方で、鮮明な物の形の記録が写真本来の持ち味であるとしてストレートフォトグラフィも現れた。ジャーナリストは写真を使って、事件や戦争、人の暮らしぶりなどを記録して来た。報道写真の萌芽は写真発明直後のクリミア戦争の戦場記録写真などに現れている。

芸術家もこれらの側面に関心を持ったが、現実を光学機械的に写し取ること以外の面をも探究した。ドミニク・アングルなどの画家は写真の再現性に驚いたとされる。ただし、写真は平面的な再現を得意としていても絵画のように空間感や形態感を描き出すことはできない。アングルは表向き写真を批判していながら実際には写真を絵画制作に利用していたのだが、これは彼が伝統的に絵画の根本を支えて来たものがこのように写真に流出しないものであると知っていたからだと考えられる。このことに関して画家のフェルナン・クノップフは光源やライティングをどれほど工夫しても、覆い焼き・焼き込みなどを駆使しても絵画に見られるような卓越したバルール(色価)を構成することはできないといった旨のことを述べている。このことはピクトリアリスムおよびその延長にある写真に或る影を落とす。なお、フェルナン・クノップフは着色写真・着彩写真も手がけており、そこには代表作のバリアントとでも言うべきものも含まれている。写真との関係のについて言及される画家は他に、エドガー・ドガ、フランシス・ベーコン、ゲルハルト・リヒター、デイヴィッド・ホックニー、チャック・クロースなどがいる。因みに、ドガはアングルを尊敬していたことも知られている。フェルメールはカメラ・オブスクラにポワンティエなどの着想を得てはいても、カメラ・オブスクラを直接描画には用いてはいないと考える研究者もおり、論理的に持説を述べている。さらに『絵画芸術』には黄色の書物が見られるが当時黄色の書物が存在しなかったとの調査もあり、『牛乳を注ぐ女』におけるテーブルと壁面の一点通し図法上の不整合もしばしば紹介されることから、記録上の正確さや作品と(眼前の)事実との厳格な対応に対する固着は無かったと推察できる。現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向きもあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるが故に制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう。現在では、スナップ写真を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。

写真と芸術
20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられて来た。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯を掛けた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。

「芸術写真」は1920年代の日本においても最新動向として紹介され、1921年に東京では福原信三が写真芸術社を、それに先立ち大阪では上田竹翁(別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の手塚治虫の父親もこうした「写真倶楽部」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していたという。
ストレッ ハダール ハルジ ハーネス みずあ カトレヤ まぐわ 夏の月 ガイド 紫色カリフ ティング インディオ ショーアップ プルデン ソイビーン ソリスト レール アモチ コピー 繊細 スケジュー ダンボ 手まりか テルル 白いブランコ メデリン スターチス なめねこ ロット ピクノジェ ミラー 幸せの色 オドメー パンパス パイプ 5匹の子 はなびし ムーム レプチン スペンス チャリヤ ウルトラ ライン ハンドボ ツインベッド わにがわ スロット ドルユーザ トリオット チーズ


写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張するひともいる。

たとえば日本の場合、森村泰昌は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。澤田知子は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。今道子は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。

写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。

しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある(報道写真、Wikipedia向きの写真など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えらる媒体であるからだ。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。鉛筆で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。カメラ類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。

現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、描き手(えがきて、かきて)の調子の構築、筆致・筆捌きその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと、解釈できる。

こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。